信天翁通信(あほうどりつうしん)9-15

ahodori tsushin

信天翁通信(あほうどりつうしん)11 仕事にまつわるいろいろ(その3)

必殺シリーズが、『必殺仕事人』(1979~81年)で打ち止めになるかどうかは、視聴率に賭けられていました。根強いファンはいるものの、いわゆる腸捻転現象是正以来、つまり発信局朝日放送・全国ネットTBSを、ネット局テレビ朝日に是正以来、関東の視聴率が低くなり、『必殺うらごろし』(1978~79年)という試行で高かった関西の視聴率も低下、どっちも10%を僅かに越えるだけの危険水域に入ったのです。(まあ現在のテレビ全体の視聴率低下から見れば、10%に達していれば平均レベルなのですが、当時は15%がめどでしたから)

それが『新・必殺仕事人』(1981~82年)で大きく回復。三田村邦彦に続くニューキャラクターとして、中条きよしが、そして今まで『必殺からくり人』(1976年)という別シリーズのトップだった山田五十鈴が上置きで加わり、親子で三味線屋をやっている、というメインライターの野上龍雄さんの設定が生き、五十鈴さんの三味線の撥(ばち)での殺し、中条さんの三味線糸での殺しという技が画面的に面白く、ことに糸での殺しなんて物理的におかしいのですが、見栄えがしました。月代をきれいに剃り、きちっと髷を結い、僅かな鬢のほつれ毛が色気たっぷり、というスタイルも映えた。三田村さんのラフな地頭と好一対のクールな二枚目。必殺シリーズ屈指の好メンバーが揃ったのです。

音楽も変わった。殺しの出発がトランペットのファンファーレになった。山内久司プロデューサーの大改革です。ここから必殺はマニア向けの番組ではなく、人気番組になる。ただ、これだけ役者が拮抗すると張り合う。内紛の種が、ここで既に蒔かれたのです。

さらに並行して京マチ子さんがメインの、『必殺仕舞人』(1981年)シリーズが始まる。旅芸人で殺し屋、というシリーズで、各地の民謡が悪をシンボライズする、という仕組み。高橋悦司さんの朴訥さ、本田博太郎さんの小心さ、京マチ子さんの色気たっぷりの妖艶さに、西崎みどりさんの唄がマッチ、これもヒット。必殺シリーズは良き復活を迎えた感があった。しかし、あとで聞くと、予算が常にキツかったそうです。京さんのシリーズが続かなかったのも、出演料問題だった、との説もある。≪殺し屋≫のおハナシでは、テレビ常連のビッグスポンサーが全く付いてくれなかったそうで、『必殺』の異端ぶりは、逆説的に言うならば常に健在だった訳です。

さて、必殺シリーズがこの『新・必殺仕事人』と『必殺仕舞人』に入る前、準備と助走がなされている間に書いた作品について話しましょう。

『愛した、跳んだ、そして散った』(1980年)。クリント・イーストウッドがイメージアップした硫黄島の戦いで戦死した、1932年のロス五輪で馬術のグランプリ障害飛越競技金メダリスト、西竹一男爵を描いたのですが、テレビの90分に入る規模ではなかったですね。西さんのご子息やJRA竹田垣徳氏など、貴重な取材がメインになり、当時のハリウッドでバロン西の愛称で親しまれた遊び人ぶりなど、そして騎兵の時代が終わって戦車部隊に変り、孤島への派遣で戦車が使えず、埋めて戦車砲だけで戦わされた無念さなどの面が描けず、結局夫人との出会いのボーイ・ミーツ・ガール・ドラマ、その愛だけがメインになった。プラニングが弱かった、という反省があります。

9代目松本幸四郎さん(当時染五郎さん)主演で、貴公子ぶりが鮮やかでした。従卒の役の粟津號さんが、ちっと崩してやろうと思い、横浜で有名だったストリップティーズ、マナイタショウへ連れて行った珍談があります。幸四郎さん、人目に立たないよう、大きなマスクにサングラス、帽子目深というスタイルで入ったのでかえって人目に立ち、そしてその姿でカブリツキに坐らされたもんだから、ストリッパーたちが面白がって異常接近、満場の注目を集めてしまったらしい。

このあと、鶴田浩二さんで、やはり2時間スペシャル『42時間の恐怖』(1981年)をやります。たしかテレビ本格主演の最初ではないか。ウィリアム・ワイラーの傑作『必死の逃亡者』(1955年)のジョセフ・ヘイズの原作の脚色です。平和なサラリーマン家庭へ凶悪な逃亡犯3人が侵入、高飛びの中継地点とする。中年の管理職である主人と、その町の出身で旧知だった主犯との息詰まる対決。映画では逃亡犯の主犯ハンフリー・ボガートが主役ですが、オリジナル・キャストは主人がスペンサー・トレイシーでボガートと豪華対決の予定が、キャストの並びでもめてトレイシーが降り、フレドリック・マーチになった。

小説では主人の方が主役、と言える。で、そう脚色した。鶴田さん、受けてくれました。そして一ヶ所、セリフをご自分でふくらませた。原作にある主人公の唯一の見せ場、凶悪犯が幼いわが子を抱きすくめて拳銃を突きつけ、人質にして警察の包囲を突破しようとするのへ、その拳銃の弾は策略で主人が抜いてあるが、それを言う訳に行かず、ただ、そいつは射てない、射つ度胸はない、父親の私の言うことを信じてこっちへ来い、と説得するその一点。原作は既に古書で鶴田さんが読んでいたとは思えない。だが、役の勝負どころをはっきり読みとり、ここをふくらませた。鋭い勘、頭の良さ。感心しました。太平洋戦争後の、時代の困難を生き抜いた映画スターは、頭が良く、考え深い大人が多い。佐田啓二、池部良、高峰秀子、みなさん、そうです。なおこれで、小林薫さんがテレビ初出演してます。

そして柳の下の二匹目のドジョウを狙い、キングスレー原作、おなじくワイラー作品の『探偵物語』(1951年)を企画しました。カーク・ダグラスのやった刑事を鶴田さんに、というアイデアでしたが、原作取得で躓きます。そもそもハリウッドで映画化されたものは獲得が難しい。『必死の逃亡者』は発注局の日本テレビに助けて貰った。これも、と松竹が頼んだら、さすがに呆れられておじゃん。

鶴田さんのお宅へ打ち合わせに行った。そのときの印象が残っています。奥様に、だだっ子ぶりを発揮されていた。家具などが紫系統でまとめられていたのが、奥様の洗練されたテイストを感じさせました。このあと、鶴田さんは本格的にテレビに参入、山田太一さんと組んでNHKで傑作を連発していくことになるのです。

『赤かぶ検事奮戦記』シリーズ(1980年)がフランキー堺さんで始まり、そして土曜ワイド劇場では『山峡の章』(1981年 松本清張原作)という大当たりの作品が出たり、テレビのサスペンスにならない、と言われていた『書道教授』(1982年 これも松本清張)にトライする冒険をしてみたり、TBSが同じ土曜の同じ時間帯に『ザ・サスペンス』という2時間ミステリー枠をぶつけてくるショックに会ったりしますが、それは、次回に。

必殺シリーズは、そしていよいよ、受験生が殺し屋に加わる、という『仕事人Ⅲ』(1982年)に入り、忽ち賛否両論でファンからも制作する身内である撮影所、テレビ局、共演者からも轟々と湧き起こる、という状態が現出する。それも、次回。