信天翁通信(あほうどりつうしん)9-15

ahodori tsushin

信天翁通信(あほうどりつうしん)10 町歩きいろいろ(その3)

堺で焼け出され、私たちは神戸の本山の軍需産業社長をしてた義理の伯父邸へ、一時身を寄せます。

六甲山麓、芦屋に続くお邸町、白く明るい土地で空襲で黒く焼け爛れた堺と別天地でした。谷崎潤一郎も住んでいたところです。もうその頃は、確か岡山の方へ戦争を避けて移っていた筈ですが。防空壕から掘りだした僅かな家財を、馬力(ばりき)と呼ぶ馬が曳く荷車に積み、私たちも乗り神戸へ向かった。その途中見た大阪の荒涼とした焼跡は、いまだに眼に残っています。御堂筋の南端の難波の高島屋の前から、北端の梅田の阪急百貨店が見えた記憶があります。小雨の降る御堂筋に人影はなく、馬が一匹、腹の傷から垂れた腸を引きずって、ぽくぽく歩いていました。まったく同じ光景を野坂昭如が小説で描いています。偶然同じ時、同じ馬を見たのか、それとも、戦時下の庶民の輸送手段は馬力しかなく、町々の馬力屋には必ず馬がいたからか。

車なんかガソリン払底で走っておらず、乗合バスも木炭車だった。その程度の国力で、この国と軍はこの戦争を始め、国土と非戦闘員の国民を黒焦げにし、若い人の命を特攻などという消耗戦術で散らさせ、愚かしい終りかたでしか戦争を終わらせられなかった。国民はこのあと凄まじい飢えで草まで食い、避難所もボランティアも免税も補償もない時代を生きた。私も、ちゃんと家に住み、正規に学校に通えるようになったのは三年後、新制中学二年になってからです。本山での生活は、そんな中でのきわめて僅かな安穏さでした。住居も快適、食うものもあった。本山国民学校というお坊ちゃん学校へも僅かだが通い、海浜でも遊べた。しかし、戦争は容赦なく襲って来ました。

京都もそうですが、地質が京阪神独特の花崗岩質で、地面が白いのです。ことにこの本山のお邸町は真白でした。家並みも立派で、転向した本山国民学校もコンクリート造り。堺や大阪の空襲などが別世界のようで、その話をしてやると教室のみんながびっくりする、そんな長閑さでした。海へも近く、歩いて浜へ出て水遊びができました。でもあとで知りましたが、神戸市自体はもう何度も空襲を受けていた。本山でも、アメリカ戦闘機の機銃掃射を受けました。下校する子供の列めがけて急降下してきて討つのです。伯父の邸でも、庭に居た私と祖母、縁にいた伯父、たった3人の「一般市民」、それも女子供に向けて機銃掃射するのです。戦争じゃないですね。虐殺です。アメリカ兵が笑っているのを見た子供もいました。野牛と原住民を殺戮しながらアメリカ西海岸へ達した、ワスプのインディアン狩りの太平洋版です。

さていつまでも伯父の邸にも居られないから、すぐ近くの魚崎に家を見つけ転居。学校も魚崎国民学校(小学校)に転入。ここもコンクリート造りの立派な校舎で、せんだっての阪神大震災のときに避難所として新聞に載っていた。懐かしかった。だが、一度も登校していません。転入手続きしたその夜にまた空襲があってまた家が焼けたのです。

木造の小住宅ばかりでしたから、たちまち家が燃え始め、水をかける父に母が、早く逃げよう、今夜は大人数なのだから、と叫ぶ。そう、父母、祖父母、まだオンブの幼弟を入れて子供3人、3世代、計7人。確かに大人数でした。頭上から焼夷弾が落ち続け、四方八方で火の手が上がる中を山の手の方へ逃げました。焼夷カードと呼んでいた銀色の紙片が振りそそぎ、地上近くで発火するのを手で払いながら。

お邸町へ入った途端、国民服に鉄兜の男たちが大手を拡げて立ち塞がり、怒鳴りつけてきました。『隣組』という町内会組織の役員らしい。お前らは消火活動をしないで、敢闘しないで逃げて来たな、戻れ、戻って敢闘しろ。父も母も敢闘したけど、家が燃えてしまったのだ、と言うのですが聞き入れない。だが、被災した人々が続々逃げて来て、遂に数の力で空疎な愛国者たちを押しのけた。私たちは暗い方へ暗い方へと逃げます。頭上からは焼夷弾の落下するざーっ、ざーっ、という轟音が響き、落下音のたびに火勢が増して赤い色と煙が渦巻く。焼夷カードが無数に舞い落ち、次々に発火する。町内会単位の大きな防空壕の扉を叩いては「子供と年寄りを連れています。入れてください」と戸を叩いても、満員だ、という押し殺したような声か、沈黙が返って来るだけ。

やっと学校に着き、校庭の大防空壕の戸を叩くが、同じ対応です。次の瞬間、照明弾の青い光が辺りを照らし出し、続いてモロトフのパン籠が弾けざーっという焼夷弾の落下音が頭上に迫り、思わず目の前のプールに水が張ってあったのへ飛び込もうとしたができず、その場へ突っ伏す。そのプールへ焼夷弾が塊まって落下、炎と水しぶきと煙が、轟音と共に立ち昇りました。間一髪で、助かったのです。

コンクリート造りの校舎へ逃げ込む。そこの図書室でアルス児童文庫を見つけ、歴史物語を読みふけったのを覚えている。人類の愚行の最大のもの、戦争と空襲の中で読むのはアイロニカルですね。

翌日、家へ帰って私たち一家の運の悪さを知る。空襲の被害は町全体でなく近所は殆ど焼け残っていたが、我が家は全焼。そして母が正しかったことも知ります。父が消火につとめていた玄関前に、焼夷弾が直撃して突き刺さっていた。父が居たら即死か黒焦げだったでしょう。

近所の家の応接間へ夜だけ寝させて貰い、昼は焼け跡から家財道具を掘り出す。2回空襲に遭ったからもうロクなものも残っていません。紙不足でタブロイドになった朝刊だけの新聞で、広島・長崎への《新型爆弾》投下と惨害、そしてソ連の中立条約を一方的に破棄しての不法侵攻を知ります。原爆のことは訳が判からなかったが、ソ連の参戦は子供ごころにも、絶望的なものを感じました。

やがて、富山県射水郡越中大門浅井村の、二番目の叔母の嫁ぎ先のお寺へ、再度の避難です。そこで敗戦を迎えるのですが、それは、次に。

このように、神戸という町との最初の出会いは、二度めの戦災との出会いでした。

でも、この町の魅力と、のちまた出会うことになります。必殺シリーズの執筆で京都に滞在中、あちこち足をのばした中に、神戸も入ってたからです。北は六甲を背負い、南は海に展いたここは、港町の魅力に溢れていました。阪神大震災の神戸。北野の異人館通り、三宮、トアロード。それらは京都めぐり、滋賀めぐり、大和めぐりとつなげて、のちほど。