信天翁通信(あほうどりつうしん)1-8

ahodori tsushin

信天翁通信(あほうどりつうしん)6 町歩きいろいろ(その2)

生まれて10才まで、国民学校(小学校をそう言ったのです)五年生まで育った堺のことを書きます。この話ではバーは出て来ません。子供時代ですから。そしてそもそもバーを見かけない。似合わない町、なのかも知れません。とても古い町、大阪より古い町ですから。宿院という古い盛り場のあたりは、アメリカ軍の大空襲で根こそぎ焼け壊滅したし、映画館などのあった遊郭に繋がる新開地・龍神あたりも黒焦げ地獄になって壊滅。東の、高野線堺東駅付近が焼け残って現在の盛り場ですが、歴史が浅い分だけ奥行きもない感じで、そもそもビジネス街もなかったのが今やっとカタチになりつつあり、都市としてまだ中心がない感じです。

もっとも大浜や浜寺の白砂の海岸を埋め立てて大工業団地にしてしまった、そっちが中心なのかも。このプロジェクトを推進した、戦中から戦後にかけての市長は河盛安之介。旧河盛家は宿院筋南側に大きな邸があったと記憶しています。フランス文学者河盛好蔵はこの家の出の筈です。歌人与謝野晶子(鳳晶子)の実家駿河屋(和菓子商)も、宿院山之口筋にあったので碑が残っています。

戦国時代から港として栄え、堀割で囲まれた要塞都市として傭兵もいた面影は、今も旧港とそれに続く堀割、旧燈台に僅かに残っています。それと妙国寺から綾之町にかけて焼け残った商家など。

それと、人。背が高く堂々たる体躯、大きい眼。はっきり南方の中国人の血が残っている男性をかなり見かけます。京都から大阪、堺、と南下すると、はっきり北国から南国へ来る感じがあります。顔も、京都は貴人から町衆まで絵巻物に出てくる顔だし、大阪は男女ともに文楽人形の顔です。堺は中国南方系、ひょっとしたらポルトガル系まで父祖にいそうな顔つき、体つきと出会う。うちの祖父、父、叔父も眼が大きく、父と叔父は背が高かった。一番立派だったのは上の伯母の夫、石割松太郎(毎日新聞社員、文楽研究家、早稲田大学教授、「大衆文芸」というネーミングを創始、そのジャンル確立に努めた)です。写真で見ると巨眼巨躯、鼻眼鏡を高い鼻に掛け、まるで西洋人!

うちの家系でもう1人演劇史に名を残しているのは、曽祖父の卯平、開口神社の門前に卯之日座という芝居小屋を経営。川上音次郎の『経国美談』『板垣君遭難実記』を日本で初めて舞台に掛けた。新派の発生の糸口となる公演です。この卯之日座は一、二度映画を観に連れて行かれた。もう映画館になっていて吉田家とはとっくに離れていたが、それでも顔パスで祖母らと入った。二階はまだタタミで枡席だったのを覚えています。

ご先祖話をもう二つ。ひとつはうどんすき「美々卯」。この本店は堺、宿院にあります。この「卯」という字はうちの家系から養子に入った人物から由来している、というのです。うちは代々「卯」を名前につけてた。私の代で途切れるのですが、父は一字名前が好みだったから私に「卯」とつけようとしたが、どう読むか困って「剛」にしたらしいです。

もう一つは、天誅組隊士のエピソード。うちの先祖の家へ大和挙兵で敗れた天誅組の、あちこちへ敗走するひと組が夜中に戸を叩いた。何か食い物商売だったらしい。身を清めたいから水を使わせてくれ、というのです。亭主は怯えて表戸を押さえて入れようとしなかったが、妻が気丈な人で気の毒がって入れた。傷で血だらけ泥だらけの身体を井戸水で洗い、そしてもう縄目を受けての刑死か切腹だから、と肌付け金を礼にみんなが置いて行った。その金で風呂屋の株を買い暮らしがしっかり立つようになった、という言い伝えがあり、事実、親戚筋に風呂屋があります。お金持ちで、ご当主は立派な顔と体形です。

美々卯と同じ宿院あたりの、昔からの名店を見てみましょう。蕎麦の「ちくま」。ここの熱盛り(あつもり)は、丼に卵の黄身だけを四、五個、熱い蕎麦に割り入れて掻き混ぜ、それで食べる珍しいものです。芥子餅(けしもち)の「小島屋」。薄皮、上品な甘さの小ぶりの大福の、その皮一面に煎った罌粟の種がまぶしてあり、風味のいいものです。昔は数軒あった記憶があります。

余談ですが、泉州平野は罌粟の名産地でした。満州事変、上海事変、支那事変と繋がる中国植民地化戦争、その諜報・謀略の特務機関費を捻出するため、満州などでの罌粟栽培、阿片、モルヒネ製造販売を強行、その協力者としての河内の栽培・精製業者を軍はスカウトした、そんな歴史もあるのです。

千鳥最中。千鳥型の皮に濃い餡を入れた大型のもの。これも何軒かあったが、今もあるのでしょうか。大寺餅(おおてらもち)。宿院から山之口筋という繁華街へ入ると、突き当たりに大寺(おおてら)さんがある。その門前で売っていた、甘い黄粉をまぶした餅。今もあるのでしょうか。大寺さんというのは開口(あぐち)神社。神仏習合をはっきりかたちに残し、仏塔のある神社。アメリカの空襲で焼けましたが、再建されています。

焼けなかった寺社で有名なのは、この少し北の妙国寺。明治初年、神戸でフランス兵を斬った土佐藩士が切腹した寺。寺も名物の大蘇鉄も空襲で焼けずに残っています。このあたりから北が、空襲の災害に遭わなかった古い街です。そして南も、焼け残った有名な寺がある。南宗寺(なんしゅうじ)です。戦国時代からの名刹。利休たち茶人や商人(貿易商)と縁が深い。旧堺を囲む堀の残りがその横にあった、いや今もある筈です。

子供というのは神社や寺と縁のないもので、私はずっと入ったことがなく、そのまま現在に至っていますが、堺の子供なら知っている不思議な伝説と遺物がある。徳川家康はこの寺の傍で殺され、本堂の床下に密かに葬られ墓があるという伝説で、小さな墓石が本堂の床下に今もある筈です。大阪夏の陣のとき、本陣のあった平野郷から駕籠で大阪へ急ぐ家康を、向うから馬で来た後藤又兵衛が、垂れを降ろした駕籠を怪しみ槍でひと突きして通り過ぎた。家康は即死、南宗寺へ密葬され、あとの家康は替え玉。この伝説はうちの祖母も言っていたから、堺では常識でした。南条範夫や隆慶一郎が小説に書く前から、家康は替玉だ、と。

この南宗寺の傍に残っていた堀の南端(北端は知りません)は我が家の前にあった。そして西の方に、その堀と港をつなぐ堀があり、その西の端は旧堺港へ開いていた。この旧港は石を積んだ古い防波堤で囲まれ、外海(といっても大阪湾ですが)への出口、堤の端に燈台があり、それは明治に建った(あるいは建て直した?)ままの姿で、今も文化財として残っています。

港から南へ、白砂の奇麗な砂浜が広がり、大浜(おおはま)といいました。海水浴場になっていたので、子供の頃よく親に連れられたり学校の水泳訓練で来ました。家から近く、弟をおぶった祖母と夕陽を見に来たり、夜、父とボクシングの試合を見に来た記憶もあり、水族館のアシカの啼く声が、夜、ウチまで聞こえてきたものです。

その水族館、公会堂、そして潮湯という沸かし湯温泉のあるレジャーパーク大浜公園は浜辺に隣接していて、松林、和風庭園もある広いスペースで、かつては大浜少女歌劇団というのが公会堂で定期公演をしていた、と聞きました。戦災からは焼け残ったが、水族館は空っぽ、潮湯も営業できず、レジャーパークとしては戦災後、全く機能を失っていました。だが、焼け跡の続く中で、ともかくのんびりできる場所でした。運動場では野球の試合もあり、アメリカ兵がよく散歩に来てました。

この公園の北の外側から旧港(もう漁港になっていた)の傍まで、海に面した料亭が続いていました。芸者もいたらしく、谷崎潤一郎の大阪や神戸を題材とした小説などで、大浜へでも行こうか、とシケ込む場所として出てきます。芸能人(桂春団治)なども来たらしい。当時の芸能ニュース記事に出てきます。漁港につながっているから魚がよかったのでしょう。

この大浜漁港では、昔から毎夏、夜市が開かれます。魚のセリ売りが公開され、それがこの夏祭の名物です。町では蒲団太鼓と呼ばれる山車が太鼓を鳴らし、ヨイトヨヤマッカ、ドッコイサノセエ!と掛け声も勇ましく練ります。岸和田のダンジリ並みです。屋根の代わりに紅絹(もみ)の蒲団を重ねた風変わりな山車(だし)です。これがどこの神社のお祭りか、覚えていません。そもそも宿院というのが、どこかの神社のお旅所ってことですが、それがどこのか覚えていない。鳳(おおとり)神社=大鳥神社というのが堺の南端にあり、立派な古社なのでそれかもしれません。

鳳の海岸を羽衣といい、歌枕の羽衣の松、天女伝説と関わりがありそうです。その浜辺が白砂青松で有名な浜寺公園。明治の初年、殖産開拓で伐採されようとしたのを来合わせた元勲大久保利通が惜しみ残させた。それが今では松林は辛うじて残っているが、美しい白砂の浜は失われ、海は埋立地のコンビナートが、大浜から浜寺の南の高石市まで続いています。浜寺の南はこれも古今和歌集と新古今和歌集の歌枕の高師の浜でしたが、コンビナートで失われました。

戦後の一時期、私は高石市(当時は高石町)に疎開していて、その浜でよく水遊びしたものです。浜寺も大学一年の頃、夜飲んでてタクシーの相乗りで水遊びに来、パンツ一丁で海に入った記憶があるから、まだ白砂の浜はあったのです。埋立による開発は空襲で壊滅した堺の再興のためだったのでしょう。しかし、古くからの町の中心部が寂しい侭で埋立地のコンビナートが巨大な今の堺、それが真の再興なのか。

この事業を始めたのは、先に述べた河盛安之介市長。完成したのはその助役で、後任の市長になったヒトです。この二人が浜寺と高師の浜を消滅させたのは確かで、僅かに残るのは戦前、高級住宅地として開発された浜寺公園町、そして高師浜のお邸町のみです。大正モダンというのか、しゃれた家並がまだ残っている筈です。

さて、旧堺を壊滅させたアメリカ軍の空襲。私の戦争体験の最大のものです。そのことを話します。昭和十九年(1944)、戦争が身近に迫った感じがし始めたのはその年からでした。

主食の米の配給が一日の必要量とされた1人3合に満たなくなり、玄米の侭で水で膨らませて炊きました。楠木正成が千早城へ立てこもって、北条氏の大軍と長期戦をやったときの炊き方とかで、楠木飯(くすのきめし)なんて勇ましい呼びかたでした。おかずもアンモニア漬けで保存したスケソウダラの切り身とか、大きいがスジばかりの農林ナントカ号とかいうさつま芋とかヒジキとかだった。四十二歳で軍需産業(松下造船=のちの三洋電機)勤めで、徴兵からの絶対安全圏だった父にも、補充兵という臨時徴兵の召集があることになり、毎晩軍人勅諭を暗誦して覚えていた。

もっと怖かったのは、用紙不足でタブロイドの朝刊だけになった新聞(祖父以来とっていた朝日?地元紙?)に、女子供も戦え、という特集で、アメリカ兵は背が高いから背後から忍び寄り、睾丸を蹴って気絶させ、竹槍で突き殺せ、という囲み記事が絵入りで(モンペに防空頭巾姿の女性が、アメリカにそれをやる図解)載っていたのを読んだ時で、心底から怖かった。

翌年二十年の春、大阪が最初の空襲を受け北の空が一面真っ赤になり、夜なのに本が読める明るさでした。あくる日、貧しげな老爺が袷に防空頭巾だけで大阪から逃げて来ました。すぐ傍の阪堺電車大浜線の踏切番小屋でうずくまっていて、黒山の人だかりだった。堺市民が初めて見る戦災被災者だったのです。

そして新学期に全学童に戦時疎開が発令されます。学校ごとの集団疎開と、各家庭ごとの縁故疎開。ウチは郊外の金岡(国鉄阪和線金岡駅・今の堺市駅の向こう)の豆塚に遠縁の農家があり、その納屋へ私と次弟が祖母と3人で身を寄せ、金岡国民学校へ転校。私が五年生のときでした。以降、二度の空襲による戦災で、神戸、富山県、敗戦での堺への帰還と、五年生の1年間に五度の転校です。学力や身体能力の発育に支障が出てしまいます。算盤が出来ない。泳げない。自転車に乗れない。対人関係がブツブツに切れて実らず、他人が怖い。転校するたびに摩擦やイジメを受けるからです。早生まれのチビでしたし。

その二十年夏、学校が休みに入る直前の7月10日、堺の空襲で最大の第三次空襲に遭います。

夜、空襲警報のサイレンで外へ出た私たちは、堺の空が真っ赤なのを見る。凄まじい轟音と閃光。青白いサーチライトに照らし出されて、巨大爆撃機B29の編隊が飛んでいる。対空砲火はなく、迎撃する戦闘機もない。敵機の落とす照明弾が、更に青白い光を放つ。間断なく聞こえる音は、敵機の落とす「モロトフのパン籠」と呼ばれる焼夷弾の収束体の落下音です。鋼鉄の六角の筒状の弾が束ねられた物が投下され上空でバラける、そのザーッザーッという散乱落下音なのです。おそらく黄燐ではなく、原始的なナパーム弾だったのでしょう。火力は恐るべきもので、中の液体を1滴でも受けたら骨まで燃え抜けると言われてました。

翌年早々、祖母と弟の3人で家の様子を見に出掛けたときは、珍しい光景でも見られるかなぐらいの気分でした。ガソリン欠乏ゆえの木炭バスももう走っていず、家へはいつも徒歩でした。反正天皇御陵を越えて南海電車高野線の堺東駅、そこまでが郊外でそこからは市内です。踏み込んだ途端、そこはもう被災地で焼け跡が煙を上げていました。

中心地の宿院あたりに達すると一面の焼野原で被災者の群れが郊外へ脱出し続けていて、そのうちに焼死体が見えてきたのです。最初は人間に見えなかった。材木の焼けたのだ、と思った。人間だ!と分かってからは恐ろしかった。それは苦悶する形のまま、真っ黒に燃え切っていた。縮まって、小さくなっていた。そして、脂でギラギラ光っていた。恐ろしくて飛び回って逃げ、見ないようにして避けて歩いた。しかしまだ火気が熱く残っている上を、それを見ないよう避けてては歩けないのです。そして阪堺電車大浜線の、あの大阪の被災者を見た踏切を越えた時、家が跡形もなく焼失した、と分かりました。

黒煙を上げて、焼野原が拡がっていました。唖然と見回した途端、今までとは比べものにならない恐ろしい焼死体の山を見ました。大浜線は南海電鉄龍神駅を鉄橋で越えていて、上が大浜線龍神駅になっている、そこへ登る階段の下が、折り重なって焼け死んだ死体の山で覆われていたのです。

あとで聞くと、駅向うの龍神遊郭の人たちが陸橋の下のトンネルに逃げ込み、蒸し焼きになったらしい。トンネルへ入り切れない人や、こちら側の映画館街の人たちが階段の下へ避難した、その死体の山だったのです。もう見慣れた黒焦げの死体の下に、焦げてない死体があった。鮮やかなオレンジ色が異様でした。ひと目見てすぐ眼を逸らしたが、髪を振り乱した女の死体が多かった。みんな、全裸だった。焼夷弾の高熱が激しい旋風を起こし、衣類を吹き飛ばしたのですね。トタン板が、焼け焦げた木に、飛んできた形のままで引っ掛かっているのをいくつも見ましたから。

陸橋のトンネルの中は天井まで死体らしき山で塞がり、黒煙を上げていて見通せなかった。その時、背後で鋭い泣き声が上がり、振り向くと、また別の種類の死体の群れを見たのです。大きな堀割が流れているその岸に、水に晒されたような不気味な青白い肌の、腹が異様に膨らんだそれが並んでいました。火に追われ、堀割に飛び込んで溺死した人たちだったのです。水を呑んで、腹が膨れ返っていたのですね。その一つに取りすがって、女の人が泣いていました。振り絞るような号泣。慟哭、というのはあれをいうのでしょう。

その泣き声に突き動かされるように、私たちは歩き出しました。大浜の方へ逃げてないかと、父母とまだ幼児の三番目の弟を探しに。そして別な堀割をそっちへ渡る橋の上で、弟をおんぶして群集に混じってやってくる母と出会ったのです。下半身は泥まみれで、上半身は首までズブ濡れの。家に焼夷弾が落ち、消火しながら父が先に逃げろというので逃げたが、火と煙で逃げ場を失い、その橋の下の伝馬船へ乗り移ったが次々に人が乗り、船がだんだん沈み、首まで浸かったところで夜が明け助かった、というのです。

父を置き去りにした、と祖母が泣いて母を責めていたら、誰かが疎開前に私の行っていた英彰国民学校の講堂が焼け残り、被災者の救助をしているらしいと言ってくれ、そこへ向かいました。そこに集まり、手当てを受けている被災者の中を呼び廻っていると、父が出てきたのです。両眼は巴旦杏(はたんきょう)のように腫れて塞がり、両手は火傷の水ぶくれだらけでした。懸命に消火していると火勢で熱風が凄まじい旋風になり、呼吸も出来なくなったので夢中で走り、堀割に飛び込んで助かったというのです。父は泳げたのです。そしてそこで、私たちは別に住んでいた祖父と出会います。

祖父が助かった話はとても奇妙なものでした。逃げるうち、親とはぐれた子供が付いて来て離れず、仕方なくおんぶして逃げていると背中からその子があっちへ逃げろ、こっちへ逃げろと指示、その通りに火と煙の中を逃げ、助かったというのです。

それから数日間を、父の会社の寮になっていた大浜の料亭が被災社員を収容する臨時施設になっていた、そこで暮らしました。自宅の焼跡の井戸や防空壕に埋めた家財を掘り出していて、近所の人たちや友達の死を生き残った人から知ります。

記録によればこの第三次堺空襲の死者二千人、重軽傷者1千人、消失戸数二万戸、被災者七万人。総戸数の4割と総人口の3割が被災。堺は壊滅したのです。たいした軍需産業もなく、軍施設も金岡の方に連隊と陸軍病院それも精神病院、そして捕虜収容所があるのみ。トラックで作業に出される捕虜たちと、私たちは笑顔で手を振り交わしてましたっけ。そんな町がなぜ徹底的に焼き尽くされたのか。大阪の軍需産業の労働者が多く住んでいたから、だそうです。戦争でなく虐殺です。

このあと私たちは神戸本山の軍需産業の社長だった伯父宅へ、一時身を寄せます。そして魚崎で借りた家に移った途端、また空襲に遭います。女子供まで狙う、アメリカ機の機銃掃射にも。それは神戸の話になります。