シナリオを書いてみよう (その1)

信天翁通信(あほうどりつうしん)4

 

自分は映画ともテレビとも関係ない。観客として関わるだけだ。シナリオなんか書かない。書けない。関係ない。

これが普通の感じ方、考え方でしょう。

また、ちょっと珍しい仕事だな、と思うこともあるでしょう。

例えばバーなんかで隣り合って、こっちがシナリオ作家だ、と判ると一瞬話がとぎれる。まじまじ見られてしまうときもある。

話の接ぎ穂で会話を続けることになって、どんな仕事だろう、という感じの質問になる。ここでの代表的な問いはどんなか紹介しましょう。

1. セリフも全部書くんですか?

2. 1時間のドラマは1時間で、30分のドラマは30分で書くんですか?

3. どうして話を思いつけるんですか。不思議です。

こう書いてみると分かってないなと思ってしまうかも知れません。しかし、これ、かなりシナリオの本質に触れてるんです。

1. セリフはもちろん書きます。シナリオの大切な仕事です。この質問はじつは、セリフにリアリティがあるかどうか、ドラマにリアリティがあるかどうか、というポイントを無意識に指摘しているのです。

2. 1時間のドラマを1時間で書けるわけがない。どんなに速筆でも。小津安二郎は2時間のシナリオを書くのに1年かけています。この質問はドラマに時間に感じているからこその質問だと思います。そう、ドラマは《時間》です。絶対的に過ぎていく時間こそがドラマのベースです。

3. どうして話を思いつくか、発想するか。これはドラマには必ずストーリーがある、と感じているからですね。思いもよらない展開は、小説にもドラマにも絶対必要です。プロットと呼ばれる、進行する止まらない展開。

3つの質問が、シナリオ、ドラマというもののを本質に無意識に触れている、迫っていることが、お解かり頂けたでしょうか。
まぁ初対面の会話からは、そこまで話は深まらない。映画やテレビドラマについての雑談、好き嫌いなどで盛り上がっておしまい。でも交流して会話が深まる。こちらも具体的な映画やテレビドラマの話をする。また自分のやった作品の話もする。

ここいらで、関西、ことに大阪では必ず出る質問がある。

「それで、年、ナンボぐらいになりますか?」

ずばり、稼ぎのことになる。大阪以外ではあまりそこまで話題にしませんね。

何回かそんな目にあって、友人の大阪人にその話をしたら大いに笑って、そして「それでナンボになるんや」と来ましたね。これでまた大笑いになりました。

さて、そこまでの会話に至っても、シナリオを書いてみたいな、と言い出す人はあまり居ません。いや殆ど居ない。むしろ、映画の話が深まったら、映画撮ってみたいな、という人は案外多い。

なぜだろう?

きっと、映画はカメラがあれば撮れるし、撮れば写る。人や、物や、景色が写る。しかし、シナリオを書くというのは結構技術を要するだろう。そう無意識に感じているからではないか。

書くという行為の中では、日記とか自分史などといった《記録》は取っつきやすいと、感じるものです。

芝居を書くのもドラマを作る、という点では同じですが、設計、プランニング、構成、シーン分けなどという取っつき難い技術が、シナリオには沢山要求されるように思えるのでしょう。

芝居という、舞台に限定された表現、その限定の面白さ、目の前の生きている人間がドラマを演じる面白さは取っつきやすい面があります。いいキャラクター、いいドラマを発想できれば、戯曲はシナリオより書きやすいかも知れません。

シナリオの難しさは、場所と空間、そして時間をどこへでも飛ぶことが出来るという、映画という表現の一番得な美味しい在り方、それを組み立てて短いので30分、長くてだいたい120分から180分という《時間》の中に収めなければならない。つまり、時間、空間を超えられる自由と引き換えなのですね。

そして、シナリオから映画を創って行くとき、絶対に現実を、その映画が撮られる現代という、同時代性を超えられない。映画は連続写真であり、フォトグラフィー、あるいはビデオというものは目の前の現実しか写せないからです。その時代のリアリティを超えられない。

例えばアニメですら、初期のディズニー、フライシャーの時代と今ではまったく違う。これもその時代のリアリティを超えていないのです。『イエローサブマリン』は、『白雪姫』『バッタ君 街に行く』の時代には作れなかった。

ということで、次回はいかに《映画》は生まれたか、いかにシナリオが生まれたか、を語ってみましょう。

そして、シナリオを書くという技術なんか要らないよ、カンケイないよ、という声にはこう答えましょう。

ケータイやスマホで簡潔で面白い話を語る、それが技術なら、その技術の芯にはシナリオと同じ発想があるよ、と。また、映画やテレビドラマが、面白く、深く見られるようになるよ、と。

以上、第一回。

なおこのシリーズは、私がシナリオライター志望者に書いた『シナリオを書く』(シナリオ作家協会発行)という本を、一般読者向けに柔らかく解きほぐしたものです。

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仕事にまつわるいろいろ(その1)

信天翁通信(あほうどりつうしん)3

 

脚本家専業になるまでのことは、『大船撮影所いろいろ』で書きます。

テレビ部へ企画・脚本担当で移っての最初の仕事は、土曜ワイド劇場『声』(松本清張)の脚色でした。この枠はできたばかりで企画も視聴率も安定せず、また一時間半(当初はそうでした)という長さはテレビで育った脚本家には書き辛く、映画出身の脚本家には食い足りないという感じで書き手が安定供給されず、そしてまた松本清張という作家は、その題材の独創性、そして日常リアリティの濃さを買われてテレビ化はされていたが、ミステリーが本質的に持つプロットの強さ、その独自のオリジナリティはテレビでは生かされず、当然ドラマとしていまいちになり、視聴率も取れないとされていたのです。私の脚色ではプロットのサスペンス味を強く生かし、クライマックスの設定では原作にはない危機的状況を加えました。スタジオドラマにない映画的なそれが、テレビ的日常ドラマに慣れた眼には違和感があったのか、テレビ部長は失敗作だね、といいました。この評価はすぐにひっくり返ります。

清張作品の日常リアリティの濃さは私も感じており、ヒロインの友人役に探訪リポーターとして活躍していた泉ピン子さんを推薦しました。みんな、え?って感じでしたが、これは当たりで以後女優として大きく伸びたのはご存知の通りです。ただ、ピン子さんは主演の予定だった倍賞千恵子さんとの共演を楽しみに受けたらしく、倍賞さんがスケジュ-ルの都合で出られなくなったのはお気の毒の至りです。

この作品、視聴率13%、10%前後で横ばいだった土曜ワイドとしては成功で、清張作品としてもそのプロットの強さが初めて掘り起こされたのかもしれません。また、『声』という一字題名に『松本清張の』と付けたタイトルにしたのはチーフプロデューサーの井塚英夫さん。ワイドショー出身の町場感覚の鋭さに私たちはびっくり。しかし以降ドラマのタイトルでこのスタイルが流行。いまや定番ですね。

続いてすぐ必殺シリーズで京都に呼ばれました。『必殺からくり人』第四シリーズ。早坂暁さんが創った山田五十鈴をメインとする殺し屋メンバーの物語。『富嶽百景殺し旅』。葛飾北斎が富士の絵に隠した手がかりから殺す相手を探すという仕組み。早坂さんが一話しか書けず、メインライター不在、しかもメンバーたちのスケジュールがきつく、脚本家たちが一つ宿に集められひたすら書く、必殺史上有名な《観音ホテル合宿》に放り込まれたのです。浜松の名刹が京都宿泊用別館を作ったが、場所が岡崎のラブホテル街の真ん中。ラブホテル化したそこへ、朝夕二食付きで監督、脚本家を泊め、一度行くと二本は書くノルマ。アベックも来、それを伺うこちら側の人間もおり、コンナトコロデハ書ケナイ!と怒って帰った真面目な人もいたらしい。祇園まで歩いて飲みに出られたから、便利な宿でした。

最初書いたのが『本所堅川』。江戸時代の事実談で岡本綺堂も『半七捕物帳』で使っている、浮浪児を一ツ目小僧に仕立て、空き屋敷に商人を呼び怪談仕立てで脅して金品を奪うエピソード。これを浮浪児たちが食うためにやっていて、悪御家人に悪用されるストーリーにしました。すんなり通り、すんなり出来た。これ、必殺シリーズのフォトグラフィ美を確立した、名カメラマン石原興さんの初監督作品です。

すぐに、オカルト必殺シリース『翔べ!必殺うらごろし』が続きます。時代より早過ぎた、といわれているじつにユニークなもので、中村敦夫、市原悦子、和田アキ子などキャストラインも当時異色でした。だが、視聴率はしばしばシングルで、遂に必殺シリーズ打ち切りかどうかを賭け、続くだけ続けようと『必殺仕事人』が始まります。そしてこれは84回、足掛け3年に及ぶシリーズとなり、必殺復活を果たすのです。

チーフプロデューサーの山内久司さんに、《変えよう》という強い意志があったと思えます。一度見たら忘れられない強い現実感、殺す、という具象的行動のストレートさ、そのテクニックの奇抜さ、そういう時代劇は空前絶後で、しかしそのアルティザン性の濃さでマニアは深く存在したが観客層の広さはなかった。そこ を変えようとしたのではないか。殺しへの出発の音楽が、闘牛士の登場のようなファンファーレに変わり、そして若さのヴィヴィッドさ、色っぽさを持つキャストが加わる。脚本家や監督の顔ぶれにも変化をもたらしたかもしれません。現代のドラマの人や新人が増えています。

私についていえば、『仕事人』で担当した最初のものは、このシリーズ初の視聴率18%、中村鴈治郎、山田五十鈴両元締めの夫婦喧嘩、決闘沙汰というオイシイ設定の回だったせいもありましたが、必殺再構築に多少の貢献をしたようです。

土曜ワイドは模索の時期、必殺は変革の時期、それらと出会えたのが脚本家のスタートとして幸運でした。更に社員ライターで脚本料が安かった。確か必殺が6万、土曜ワイドなど2Hが12万。これは助監督が映画の脚本を書くと15万だったのに準じたのでしょう。この事は、数年やってる内に必殺の制作費が万年赤字だったのを消すほどのプラスを松竹にもたらした。必殺シリーズは制作費が安かった。殺し屋の話というので有名スポンサーが付きにくかった、と山内さんから聞きました。もちろん高視聴率番組になってからは違ったでしょうが。

さらに私の資質からいうと空想力はあるが想像力が弱い。アイデアがキャラクター、ストーリーに育ちにくく、プロットになかなか達しない。日常性の強い、アクチュアリティに基づくドラマだとことに苦しい。しかし、いわゆるレシ(物語)の虚構性に基づく時代劇とミステリだとプラスに働いたようです。つまり土曜ワイドと必殺に、私は受け止めて貰ったのでしょう。

そしてこの二つの路線をやってるうちに新しい分野にも加わるようになります。そのあたりは次回から。

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町歩きいろいろ(その1)

信天翁通信(あほうどりつうしん)2

 

町、そして町歩きが楽しくなったのは、松竹へ就職してからです。それまでの、生まれた堺、堺の空襲で逃げた神戸、そこでも機銃掃射や空襲に会って逃れた富山、敗戦で戻った堺、大学卒業までいた大阪、それらはすべて生活空間だった。大学へは奨学金で通っていて、小遣いもその中から捻出、映画は第二封切の二本立て、演劇サークルの月イチの例会、それでギリギリ。そのためにいつも結構な距離を総て歩いて移動したが、それはここでいう町歩きとは違います。

議論、雑談の場は喫茶店。コーヒー30円。大阪人の常食のキツネうどんと同じ値段でした。屋台の鮨が一皿三個付けつまり3個で20円だったかな。焼酎コップ一杯20円。新世界あたりで串カツが一本6円。そんな状況のところへ、大学4年の時、トリスバー・ブームが来ます。ハイボール30円。コーヒーと同じでした。カウンターバーでバーテンダーがいた。このバーテンダーの質が高かった。太平洋戦争から戦後にかけて時を得なかった人たちが、やっと表舞台へ出てきたんですね。都会的なムードがあった。常連になると小冊子『洋酒天国』をくれる。松竹入社後新橋・銀座・鎌倉・横浜の町歩きの面白さを知ります。給料を貰うようになり、お金もかなり使えるようになった。バーというのが町歩きの魅力のひとつであるというのが解ってくる。バーテンダー・バーというのはそう高くなかった。女性がいませんから。

では、今行っているバーから昔のバーへ、つまり今の町歩きから昔の町歩きへ、《時》と《町》を往きつ戻りつしてみましょう。

銀座。ブリック、トスティ、ロックフィッシュ、三笠会館5517、モーリ(毛利)。

銀座は歩きやすい。店もヴァラエティに富み、老舗も多く残ってます。ただ小粋さが殆ど消え、ショウウィンドウが大きくなり、海外ブランドショップが増え、町の表情が取り澄ましたものになった。昔は気安い町でした。

そんな中で並木通りのブリックは1958年(昭和33年)当時のまま重厚な木組、表扉、入ったすぐ右が厚いロングカウンターです。

地下と二階はスナック風。3時に開店ですから、夏など開け放った扉からの微風と街路樹の緑が楽しめ、ハイボールを楽しめます。

スナックも兼ねているからメニューが豊富。トリハイもあるよ。

トスティ。数寄屋橋通り北端。カウンターの端に通りに面した窓のある、あのクールと同じ造り。小じんまり、と静か。酒、種類豊富、私にとっては、ラムが。マスターはあのトニーズバーのトニーさんの弟子。

ここで昔の思い出を。クールとトニーズバーは良きバーでした。マスターの古川さん、トニーさん、風格あったですね。

古川さんの定位置はカウンターの端、通りに面した小窓の前。暮れなずむ街を眺めながら、《これがバータイムでございまよ》と、目を細めてにこにこしてらした。食前酒を軽く、または食後酒を軽く。ぐだぐだ尻の長いのはバーの飲み方じゃない、というセオリーの、慇懃だが怖い人で、その前へはなかなか案内して貰えなかった。窓の前のコリドー街が堀割だった頃は、船で来る粋な客がいたそうだが、それは私の前の時代です。カウンターは立ち飲み。

トニーズバーは新橋、十仁病院の横の通りの地下。代変りして今もあるかも。ロングカウンターだけのスタンドバー。奥の、トニーさんの定位置の前だけ少し椅子があり、馴染みになると座れた。カルヴァドスのコレクションは有名だったが、どうなったか。ここもセオリーに頑固で、女だけでは絶対入れてくれなかった。英国流だそうだ。社会がレディーファーストではないので本末転倒ですけどね。女性同伴はOK。《ご同業ですか?》と、確認しての同業者割引があったっけ。トニーさんのアネクドートでびっくりしたのは、映画俳優高橋貞二の衝突事故に同乗してたって事。飲み仲間だったそうです。

ロックフィッシュ。クールの隣のビルの二階。ここは大阪のキタ、お初天神サンボアの流れで、その更に源流の北新地サンボアの創案した、冷やしたソーダで割る、氷を入れないハイボールを、銀座で、北新地サンボア銀座店とほぼ同時に開店、提供しました。ツマミというか食べ物のメニューが豊富。缶詰や既製品をうまくアレンジしてヴァラエティ多彩、マスターにはその方面の著作が二冊あり、ハイボールブームと偶然タイミングが合い、いつも混んでいます。

5517。カクテルバーとしての風格、雰囲気は格別です。高い酒を使わないでハイレベルの味を出すのがカクテルの技、というチーフの信条は著書『銀座バーテンダーからの贈り物』通り、そこに記されたカクテルのヴァラエティが楽しめ、しかもお値段はリーズナブル。チーフの稲田さん八十二才、いい仕立てのバーコートが似合う紳士ですが、怖いときは怖い。部下を躾けてるとき、など。

モーリ(毛利)。外堀通りの南。あるビルの上の方。解りにくくていつも迷います。マスターは銀座ベテランバーテンダー三人組の一人。若いバーテンダーたちが修業に入ってるから、誰に当たるか運次第。マスターの出勤は早くない。

こう見てくると銀座は町として腰が据っている。町の中の町です。武蔵野の原生林の名残をとどめている皇居吹上御苑から来る蜜蜂の蜜を採り、使っている町。商品の質は高く、店の質も高い。丁寧で愛想のいい店、とっつきの悪い店、どっちも江戸っ子、都会人のシャイネスからですね。そんなサービスの本質はカウンターバーとカウンター割烹にある。一人にしておいてくれ、そして気を配ってくれてます。京都の宮川町の南端の笹舟というカウンター割烹、息子さんが手伝うようになったので、後継者できたね、とご主人に言ったら、あきまへん、料理しながらお客さんと会話できまへん、と一刀両断。つまりそういうサービスの商売が、カウンター割烹の本質なのでしょう。

さて、銀座から渋谷へ。

コレオス。かつては109の上にあり、コレヒオといった。いまは文化村通りからスペイン坂へ向かう通りのビルの上にあります。ここのマスターは山王ホテル出身、マティーニが独特。最初は何作ってんのかと思いますね。ジンをタンブラーでキンキンに冷やし、別に縦長のグラスをキンキンに冷やして注ぐ。強烈なキック。酔います。下手すると足腰を取られる。

渋谷は変わりました。こんなに変わった町はない。道玄坂の上、円山町、神泉あたりが僅かに昔の名残をとどめてます。静かさと賑やかさ、灯りの暗さと明るさが魅力的に混じっている町でしたが。

新宿は感じが変わりません。街道の宿場が繁華街になった面白さの侭です。新宿御苑、かつての大名屋敷、西口公園、かつての浄水場、その前は幕府火薬製造水車場という、大きな古い空間がその侭だからかも。

バー、ドンキホーテ。角筈(つのはず)の交番近く。ここは区役所裏のかのいないないばあの直系。いないないばあ時代の有名マスター、末武さんの子飼いで、のちにスペイン料理店まで出した末武さんの実質コックをしていたマスターだから食べるものが豊富。この藤田さんの得意な飲み物はジンリッキー。

こう見てくると歩きやすいのはやっぱり銀座ですね。高層ビルがないから圧迫感がなく、ビル風が吹かない。この歩きやすさでは、神田もそうです。神保町、小川町。戦前からの建物や町の佇まい。坂があるから歩きも変化に富む。バーも、山の上ホテルのバーはシティホテルのそれとは思えない、落ち着ける小さなバーです。

落ち着きたい。町歩き、バー歩きはそんな気分が底にあるのかも知れません。

生まれた堺の町をアメリカ軍の空襲で焼き尽くされ、隣近所も幼な友達も黒焦げになるか離散。逃げた先の神戸、魚崎でやっと落ちついた翌日にまた空襲。富山へ逃げ敗戦で大阪へ。10才の春から夏に転校5回。飢えながらあちこちへ身を寄せて廻った流浪のトラウマが、擬似故郷を無意識に探しているのかも。たまたま仕事がロケーション、そのハンティング、そしてシナリオハンティングであちこち廻ることが必要で、それが偶然いい町に出会い、あ、いいとこだな、と思う。それが町歩きに私を誘い出している衝動かもしれません。次からは町いろいろを書きます。まず堺から。これは戦争を語ることになりそうです。空襲、機銃掃射のむごさ、田舎への疎開、窮乏と飢餓を。

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大船撮影所いろいろ(その1)

信天翁通信(あほうどりつうしん)1

 

信天翁通信(あほうどりつうしん)

と、いうのを始めます。

阿呆鳥、信天翁。アルバトロス。アホウドリ科アホウドリ。両翼の全長が2メートル。最大級の海鳥ですが、日本の鳥島に200羽(*旧データ)いるだけの国際保護鳥。なぜそんなに少ないのか。

好奇心が強く、無警戒に人に近づくので羽毛を取るのに乱獲されたのです。簡単に殴り殺されて。で、アホウドリ。

信天翁という呼び名は、自分では魚を取れず、他の鳥の落としたのを拾ってきて生きている、つまり天を信じて生きているから、と古代中国の百科事典『五雑俎(ござっそ)』にありますが、これは古代中国人の見損ねで、潜水せずに魚をすくい取るワザの持ち主なのです。

この、好奇心が強く、好きなモノやコトだけをすくい取るというやり方で、いろいろ書いてみるつもりで信天翁(アホウドリ)通信とネーミングしました。

いろいろ発信します。

200タイトル以上脚本を書き、監督作品もあり、そのエピソードいろいろ。

松竹大船撮影所育ちなので、撮影所のエピソードいろいろ。大船はディレクターズシステムで、監督が映画作りの芯であり、私のいたころは小津安二郎、渋谷実、大庭秀雄、中村登、木下恵介、野村芳太郎たちが揃い、大島渚、篠田正浩、吉田喜重、山田洋次たちが撮り始めていました。そんな、いろいろ。

また、必殺シリーズ後期のメインライターだったので、そのエピソードいろいろ。そして、書いたが実現しなかった岸恵子とアラン・ドロンがゲスト予定のパリロケ作品、主水が狸御殿へ行く作品、スペインロケ作品の脚本も陽の目を見せたい。

同じく未撮に終わった、明治の初め、御雇外国人の手を借りず、日本の若者二人が京都の人々と成し遂げた疎水作りのドラマ、も。

そして町歩きいろいろ。

シティボーイではないが場末の町っ子で育ったからか、町歩きが性に合います。

育った泉州、堺。

大船が仕事場で本社が築地だったので、鎌倉、横浜、新橋、銀座。また、仕事のロケ地。

必殺シリーズで滞在した京都。

みんな、今とは全く違う顔の町でした。それぞれに独自の表情を持っていました。今は、どうもみんな似てきました。

盛り場、町々、郊外のたたずまい。そんないろいろ。

では大船撮影所いろいろから始めてみます。

 

大船撮影所いろいろ(その1)

 

正式には、松竹撮影所。

桜がみごとでした。吉村公三郎監督、新藤兼人脚本、田中絹代主演、『真昼の円舞曲』に、ワルツのリズムの移動パンで名カメラマン生方敏夫が撮った、在りし日の花盛りの姿が残っている筈です。

その桜がよく映えた所内の建物群は、すべて撮影に使えるさまざまなスタイルで建てられていました。

赤い西洋瓦に白壁の事務所棟は小鐘楼をそなえ教会風。テレビ映画でよく使われました。

製作部・監督個室・助監督部・撮影部・美術部の入った二階建ての本館はスレート葺きに白漆喰壁で木組みを見せた寄せ棟造り、風見鶏のある鐘楼、古雅な玄関、ベランダを備え、土曜ワイド江戸川乱歩シリーズの《悪の館》としてしばしば登場。また、俳優館と呼ばれ俳優の楽屋・美粧・結髪・床山があった南京下見の板張りの建物は学校としてよく使われました。

これらは昭和27年、謎の放火で消失した本館跡の再建ですがステージ群も個性的で、蒲田撮影所から移築した蒲田本ステージ、また、グラスステージも陽光を入れるための鋭角の大屋根をスレートに変えたもののそっくり残っていて、この二棟は現存すれば文化財ものでした。撮影所鳥瞰図は、『人は大切なことも忘れてしまうから。大船撮影所物語』(山田太一ほか編・マガジンハウス社刊)にイラストあり。私が解説しています。

さて、ところが、入社した春のこの桜を見ていないのです。入社式も知らず、恒例だったという木下恵介監督邸の招宴も知りません。補欠採用で6月入社だったのです。

大船の助監督試験の、独自の、実にユニークなシステムの結果です。ちょいとその顛末に触れましょう。

助監督試験は助監督から成る委員会が仕切り、会社も労政課も一切関われなかった。その第一次試験問題は四百字詰原稿一枚のストーリー提出。題は《某月某日》。

この募集要項の掲示をたまたま見たのが久しぶりの登校時で、当時全く大学へ行ってなくて演劇活動、それも学生演劇からプロの劇団(制作座→関西芸術座)へ繋がって入れ込んでいたので、ほんとに好運でした。時代(昭和33年)は文学部出身に会社就職口がなく、新聞社とかNHKが大手で、民放テレビはコネ募集、教職課程を取っていた者が多く、私もそうで、中学・高校教師の就職試験も受けていて、和歌山県の試験には通っていたのだが、NHKと朝日新聞には筆記試験で落ちてお先真っ暗。そんな時この掲示に出会ったのです。すぐ、ストーリーを送った。パーティーの招待状の日付を、うっかり某月某日というメモの侭で印刷に出し配達されてしまう有閑マダムの話でした。

すると第一次に通ったから第二次の筆記試験に来い、という通知が来た。貧乏でしたから、夜中に乗ると朝着く、唯一の大阪東京間各駅停車、たしか運賃900円ので行きました。大船中学校集合。校庭いっぱい受験者が居た。同期の前田陽一は四千人から選ばれたってよく威張ってましたっけ。出題は一般常識、外国語、選択で理科、または数学。そして論文と物語。この二つが実に独自なものでした。モノクロームの写真が配られ、被写体は痩せ衰えた長髪の男で乾からびたパンとも石塊とも見える物を口に当てている。そこから発想して論文と創作を書くのです。《時代の飢え》といったようなことを、論文は書いた。創作は、そのころシューベルト『冬の旅』全曲をディスカウが歌ったLPが出て、入れ込んで聴いていたからそこから発想した記憶があります。

そして、これも通ったのです。面接試験でまた大船へ。今度は撮影所が会場でした。数人づつ、口頭試問を受ける。そこではっきり、大船の独自性が見えた。試験官は助監督の委員たちだけ。《中村登監督》って名札があったけれど欠席。会社側で覚えているのは所長の大谷隆三さんのみ。つまり助監督が仕切っていた。

その会場へ労政課の人が案内してくれたのですが、「あなた筆記で成績トップでした。絶対受かりますよ」そう言われてびっくりしました。ところが、そのあと来た通知は補欠。つまり不合格。ガッカリ、というより不思議に思った。口頭試問は落ちるムードはまったくなく、私の創作は委員の一人野崎正郎氏(のち監督。『広い天』『次郎物語』)がとても買ってくださり、朗々と読み上げて下さった、なんてエピソードも出たし。

筆記でトップなのに落とすとは、と労政課がクレームつけた、なんて入社後聞いたが、助監督会の決定は会社も動かせない。これが大船の助監督採用システムでした。試験委員の大島渚さんたちとはのち助監督仕事を共にしたし、田村孟さんは私の教育係をやってくれたし、なんで面接で落ちたのか聞く機会はあったのに聞かなかったなあ。入れた嬉しさが強かったから。桃山学院という家の近くの私立学校で教師をしていましたが、欠員が出来たから入社するか、と問い合わせが来たので、即、やめて上京しました。(胸の検査で落ちた人がいたらしい)。

で、即、実務実習。給料は、半年間は試用期間って事で9,500円、半年後12,000円になりましたが、残業が多かった。独自のシステムで給料が10日、25日と分けて出、残業が2のつく日に分けて出る。だから仕事していれば金には困りませんでした。

実習は、そのとき撮影中の組に一週間づつ付いた。『恐怖の対決』(岩間鶴夫)、サスペンス。生まれて初めてカチンコを打つというサスペンスがありました。『抵抗する年齢』(田畠恒男)、生まれて初めて宿泊ロケへ行きました。伊豆でした。『その恋待ったなし』(野村芳太郎)、カラー映画初体験。まだモノクロの方が多かったのですね。生まれて初めてダビング作業を経験。さて、そして小津組、『彼岸花』。小津安二郎初のカラー映画。これには10日付きました。実に独自な撮影現場でした。詳しく書いてみましょう。私の大船物語も、そこからが本番かもしれません。

*編集注: 2015年現在、個体数3,000羽を超え繁殖地も広がっているようです)

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