大船撮影所いろいろ(その1)

信天翁通信(あほうどりつうしん)1

 

信天翁通信(あほうどりつうしん)

と、いうのを始めます。

阿呆鳥、信天翁。アルバトロス。アホウドリ科アホウドリ。両翼の全長が2メートル。最大級の海鳥ですが、日本の鳥島に200羽(*旧データ)いるだけの国際保護鳥。なぜそんなに少ないのか。

好奇心が強く、無警戒に人に近づくので羽毛を取るのに乱獲されたのです。簡単に殴り殺されて。で、アホウドリ。

信天翁という呼び名は、自分では魚を取れず、他の鳥の落としたのを拾ってきて生きている、つまり天を信じて生きているから、と古代中国の百科事典『五雑俎(ござっそ)』にありますが、これは古代中国人の見損ねで、潜水せずに魚をすくい取るワザの持ち主なのです。

この、好奇心が強く、好きなモノやコトだけをすくい取るというやり方で、いろいろ書いてみるつもりで信天翁(アホウドリ)通信とネーミングしました。

いろいろ発信します。

200タイトル以上脚本を書き、監督作品もあり、そのエピソードいろいろ。

松竹大船撮影所育ちなので、撮影所のエピソードいろいろ。大船はディレクターズシステムで、監督が映画作りの芯であり、私のいたころは小津安二郎、渋谷実、大庭秀雄、中村登、木下恵介、野村芳太郎たちが揃い、大島渚、篠田正浩、吉田喜重、山田洋次たちが撮り始めていました。そんな、いろいろ。

また、必殺シリーズ後期のメインライターだったので、そのエピソードいろいろ。そして、書いたが実現しなかった岸恵子とアラン・ドロンがゲスト予定のパリロケ作品、主水が狸御殿へ行く作品、スペインロケ作品の脚本も陽の目を見せたい。

同じく未撮に終わった、明治の初め、御雇外国人の手を借りず、日本の若者二人が京都の人々と成し遂げた疎水作りのドラマ、も。

そして町歩きいろいろ。

シティボーイではないが場末の町っ子で育ったからか、町歩きが性に合います。

育った泉州、堺。

大船が仕事場で本社が築地だったので、鎌倉、横浜、新橋、銀座。また、仕事のロケ地。

必殺シリーズで滞在した京都。

みんな、今とは全く違う顔の町でした。それぞれに独自の表情を持っていました。今は、どうもみんな似てきました。

盛り場、町々、郊外のたたずまい。そんないろいろ。

では大船撮影所いろいろから始めてみます。

 

大船撮影所いろいろ(その1)

 

正式には、松竹撮影所。

桜がみごとでした。吉村公三郎監督、新藤兼人脚本、田中絹代主演、『真昼の円舞曲』に、ワルツのリズムの移動パンで名カメラマン生方敏夫が撮った、在りし日の花盛りの姿が残っている筈です。

その桜がよく映えた所内の建物群は、すべて撮影に使えるさまざまなスタイルで建てられていました。

赤い西洋瓦に白壁の事務所棟は小鐘楼をそなえ教会風。テレビ映画でよく使われました。

製作部・監督個室・助監督部・撮影部・美術部の入った二階建ての本館はスレート葺きに白漆喰壁で木組みを見せた寄せ棟造り、風見鶏のある鐘楼、古雅な玄関、ベランダを備え、土曜ワイド江戸川乱歩シリーズの《悪の館》としてしばしば登場。また、俳優館と呼ばれ俳優の楽屋・美粧・結髪・床山があった南京下見の板張りの建物は学校としてよく使われました。

これらは昭和27年、謎の放火で消失した本館跡の再建ですがステージ群も個性的で、蒲田撮影所から移築した蒲田本ステージ、また、グラスステージも陽光を入れるための鋭角の大屋根をスレートに変えたもののそっくり残っていて、この二棟は現存すれば文化財ものでした。撮影所鳥瞰図は、『人は大切なことも忘れてしまうから。大船撮影所物語』(山田太一ほか編・マガジンハウス社刊)にイラストあり。私が解説しています。

さて、ところが、入社した春のこの桜を見ていないのです。入社式も知らず、恒例だったという木下恵介監督邸の招宴も知りません。補欠採用で6月入社だったのです。

大船の助監督試験の、独自の、実にユニークなシステムの結果です。ちょいとその顛末に触れましょう。

助監督試験は助監督から成る委員会が仕切り、会社も労政課も一切関われなかった。その第一次試験問題は四百字詰原稿一枚のストーリー提出。題は《某月某日》。

この募集要項の掲示をたまたま見たのが久しぶりの登校時で、当時全く大学へ行ってなくて演劇活動、それも学生演劇からプロの劇団(制作座→関西芸術座)へ繋がって入れ込んでいたので、ほんとに好運でした。時代(昭和33年)は文学部出身に会社就職口がなく、新聞社とかNHKが大手で、民放テレビはコネ募集、教職課程を取っていた者が多く、私もそうで、中学・高校教師の就職試験も受けていて、和歌山県の試験には通っていたのだが、NHKと朝日新聞には筆記試験で落ちてお先真っ暗。そんな時この掲示に出会ったのです。すぐ、ストーリーを送った。パーティーの招待状の日付を、うっかり某月某日というメモの侭で印刷に出し配達されてしまう有閑マダムの話でした。

すると第一次に通ったから第二次の筆記試験に来い、という通知が来た。貧乏でしたから、夜中に乗ると朝着く、唯一の大阪東京間各駅停車、たしか運賃900円ので行きました。大船中学校集合。校庭いっぱい受験者が居た。同期の前田陽一は四千人から選ばれたってよく威張ってましたっけ。出題は一般常識、外国語、選択で理科、または数学。そして論文と物語。この二つが実に独自なものでした。モノクロームの写真が配られ、被写体は痩せ衰えた長髪の男で乾からびたパンとも石塊とも見える物を口に当てている。そこから発想して論文と創作を書くのです。《時代の飢え》といったようなことを、論文は書いた。創作は、そのころシューベルト『冬の旅』全曲をディスカウが歌ったLPが出て、入れ込んで聴いていたからそこから発想した記憶があります。

そして、これも通ったのです。面接試験でまた大船へ。今度は撮影所が会場でした。数人づつ、口頭試問を受ける。そこではっきり、大船の独自性が見えた。試験官は助監督の委員たちだけ。《中村登監督》って名札があったけれど欠席。会社側で覚えているのは所長の大谷隆三さんのみ。つまり助監督が仕切っていた。

その会場へ労政課の人が案内してくれたのですが、「あなた筆記で成績トップでした。絶対受かりますよ」そう言われてびっくりしました。ところが、そのあと来た通知は補欠。つまり不合格。ガッカリ、というより不思議に思った。口頭試問は落ちるムードはまったくなく、私の創作は委員の一人野崎正郎氏(のち監督。『広い天』『次郎物語』)がとても買ってくださり、朗々と読み上げて下さった、なんてエピソードも出たし。

筆記でトップなのに落とすとは、と労政課がクレームつけた、なんて入社後聞いたが、助監督会の決定は会社も動かせない。これが大船の助監督採用システムでした。試験委員の大島渚さんたちとはのち助監督仕事を共にしたし、田村孟さんは私の教育係をやってくれたし、なんで面接で落ちたのか聞く機会はあったのに聞かなかったなあ。入れた嬉しさが強かったから。桃山学院という家の近くの私立学校で教師をしていましたが、欠員が出来たから入社するか、と問い合わせが来たので、即、やめて上京しました。(胸の検査で落ちた人がいたらしい)。

で、即、実務実習。給料は、半年間は試用期間って事で9,500円、半年後12,000円になりましたが、残業が多かった。独自のシステムで給料が10日、25日と分けて出、残業が2のつく日に分けて出る。だから仕事していれば金には困りませんでした。

実習は、そのとき撮影中の組に一週間づつ付いた。『恐怖の対決』(岩間鶴夫)、サスペンス。生まれて初めてカチンコを打つというサスペンスがありました。『抵抗する年齢』(田畠恒男)、生まれて初めて宿泊ロケへ行きました。伊豆でした。『その恋待ったなし』(野村芳太郎)、カラー映画初体験。まだモノクロの方が多かったのですね。生まれて初めてダビング作業を経験。さて、そして小津組、『彼岸花』。小津安二郎初のカラー映画。これには10日付きました。実に独自な撮影現場でした。詳しく書いてみましょう。私の大船物語も、そこからが本番かもしれません。

*編集注: 2015年現在、個体数3,000羽を超え繁殖地も広がっているようです)

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